Project.04

成熟した欧州のブレーキ市場に、私たちが風穴を開ける。

世界のブレーキ市場は欧州大手サプライヤーの独壇場であったが、アドヴィックスはこの状況に風穴を開けるべく挑戦してきた。グローバルネットワークを駆使して、チャンスを勝ち取ったチームを紹介する。

欧州サプライヤーにも
性能では負けないという自負。

日本のブレーキメーカーによる海外市場への挑戦の歴史は長い。アドヴィックスの前身の一つ、住友電気工業に入社した森田慎一は1999年の欧州プレミアムスポーツカーメーカーのコンペティションを皮切りに、何度も欧州市場に挑戦してきた。性能では負けていないが、ことごとく敗退。理由は、強すぎる欧州大手サプライヤーにあった。

「アドヴィックスは性能で劣っていない。でも、知名度のあるブランドが欲しい」。カーメーカーの担当者のこの言葉に、森田は何度も悔しい思いをしてきた。2004年、初めてコンペで競合に勝ち、アメリカを象徴するスポーツカー用ブレーキに当社製ブレーキが採用された。この頃から風向きが変わった。アメリカのIQS(自動車初期品質調査)でも、アドヴィックス製ブレーキが搭載された車種は一般ユーザーによる性能・品質面の指摘が少ないという評価が増えてきたのだ。この事実が業界内で浸透するにつれ、欧州でも当社の名は徐々に知られることとなった。

転機は2008年。これまで取引のなかったダイムラー社(メルセデスベンツ)から初めて技術プレゼンテーションを求められた。彼はアドヴィックスの製品を欧州市場に広めるべくドイツへ渡った。

グローバルネットワークを構築し、
ダイムラーの期待に応える。

プレゼンテーションの成果は好感触。終了後、ダイムラーから森田に宿題が出された。「アドヴィックスは、競合他社製のブレーキの技術課題を解決できるか?」というもの。帰国後、若手中心に各分野のエキスパートを集めプロジェクトチームを結成。設計理論のプレゼンと、実証試験を何度も重ね、約1年後、ようやくダイムラーからOKが出た。しかし、これで受注できるほど簡単ではなかった。次は「ある次期モデルの量産立上げ計画を示して欲しい」と求められた。技術力は認めたが、次はコストを含めた生産力を試したいという意味だ。

当然、日本で生産してはコストが合わない。当時、アドヴィックスは欧州に生産拠点はおろか開発拠点さえ持っていなかった。生産は親会社のチェコ工場を間借りすべく交渉を行った。鋳造はフランスメーカーのハンガリー工場を選んだ。ブレーキパッドの生産はイタリアのメーカーを採用した。約1年かけて、日本とヨーロッパを結ぶ生産計画が完成した。それから数カ月後、ダイムラーから正式に量産発注の通知を受けた。車種はメルセデスベンツが誇る基幹車種。

森田は、開発を加速させるため社内の会議や書類作成を必要以外はすべて英語で行うなど、抜本的な開発体制の改革を進めた。また日米欧の開発拠点がリアルタイムで情報共有できるよう、社内インフラの改革を実施。3地域が連携することで、24時間体制の開発を可能にした。チーム最年少の服部は入社直後から森田の下で開発に従事し、今では欧州顧客、仕入先との窓口として世界8カ国の人々と連携し、プロジェクトを取りまとめるまでに成長した。業界の積年の課題である「ブレーキ鳴き」の解決に取り組んでいる。

アドヴィックスが海外市場に大きな風穴を開けたのだ。しかし、アドヴィックスの挑戦は続いていく。これからも世界中のコンペティターと切磋琢磨しながら、私たちは「世界一のブレーキ屋集団」を目指す。

世界のカーメーカーが
アドヴィックスを注視し始めた。

ダイムラーの本拠地である欧州には、メガサプライヤーもいればブレーキ専門のサプライヤーもいる。

それだけに、欧州から最も遠い東アジアの日本で生まれたアドヴィックスが、メルセデスベンツのブレーキを受注したことのインパクトは大きい。欧州でのアドヴィックスブランドの知名度は大きく上がり、欧州のプレミアムカーメーカー各社から次期車種の開発コンペティションに招かれるようになった。また、海外で開催される学会にアドヴィックスが参加すると、カーメーカー・サプライヤーの技術者から声をかけられる機会は増えた。アドヴィックスが世界市場に風穴を開けたのだ。しかし、アドヴィックスの挑戦は続いていく。これからも世界中のコンペティターと切磋琢磨しながら、私たちは「世界一のブレーキ屋集団」を目指す。